2009年10月24日土曜日

インタビュー「灘チャレンジ2009――わたしたちは、忘れない。忘れさせない。―― 都賀川水難事故に関する取り組み」

■座談会を行った日時と場所:2009/08/03@支援室(20時~)

■インタビュー参加者(敬称略)
武久:発達科学部3回生。灘チャレンジ2009実行委員長。
久保:理学部4回生。都賀川水難事故に関する小委員会長。
相澤:聞き手。学生ボランティア支援室スタッフ。灘チャレンジOB。


■1995年6月、阪神・淡路大震災の復興祭として始まり、2009年に15回目を迎えた地域イベント「灘チャレンジ」。毎年、地元のボランティア団体や商店街の人びとの協働によってイベントを作り上げると同時に、日頃ボランティア活動や社会的活動に取り組む学生たちの問題意識に基づいた、さまざまな企画を手がけてきました。

 2009年の灘チャレンジのテーマは「わたしたちは、忘れない。忘れさせない」でした。このテーマを通じて、灘チャレンジ2009では、主に二つの問題に取り組みました。
 一つは、中越地震・中越沖地震や能登半島地震の被災地に通う「中越・KOBE足湯隊」の活動に取り組む学生が中心となって、震災被災地の現状を紹介したパネルを展示しました。
 そしてもう一つは、 2008年7月28日に発生した都賀川水難事故に関する追悼と検証の取り組みでした。毎年、都賀川公園を会場としてきた灘チャレンジにとって、この出来事とどのように向き合うべきなのか、実行委員の学生たちは長い時間をかけて真剣に話し合い、地域の方々との対話を積み重ね、企画を進めてきました。

▲都賀川公園でのパネル展示の様子




――――なぜ学生が都賀川の問題に取り組むことになったのか。


武久:大前提として、あれは灘区で起こった災害なのです。自分は、足湯隊(中越・KOBE足湯隊;中越地震や能登半島地震の被災地に赴き、被災者支援や交流活動等に取り組む団体。神戸市内や新潟県内の大学生によって構成されている。)などの活動で他の地域の災害に関わってきたけど、これは地元で起きた事故でした。学童保育所に直接関わっていた学生はいろいろ考えただろうし、他の学生も、灘区に住んでいる人間として自分の住む地域の出来事として関心を持ったと思います。
 灘チャレンジは復興祭として始まりましたが、事故の起きた川を会場としているまつりでもあります。はじめは特に具体的なアイディアがあったわけではなかったはずですが、とにかく川について何かできないかなと思っていました。おまつりという形にしたら、いろいろな立場の人が来てくれる、いろいろな人に思いを届けられる場とすることができます。事故の中身について発信するだけではなく、亡くなった方やしんどい思いをした関係者の方々へ、何らかの働きかけをしてみたいと思いました。
 一方で、誰も傷つけたくないという想いもありました。そのような、いろいろな人の想いが混ざっている中で、自分たちができることとは何かということを考えました。亡くなった5人の方々、そして事故のことでしんどい思いをした人。そういうことを忘れないでいきたい、忘れないでほしいという思いでスタートしました。


久保:武久が言ったことがほとんどだと思うけれど、あの事故は灘の中でも去年一年間の中では最大の出来事でした。灘チャレンジはその事故と同じ場所でやっているということで、何らかのことをやっていきたいというのが最初の思いでした。


――――逃げない、目を背けないということか?


武久:逃げるとか目を背けるとか、そういうことではありません。最初の段階で、事故があったからそもそも灘チャレンジをやらない、という選択肢もありました。
 やるにしても、 場所を変えてやるのか今回も都賀川でやるかどうか、という選択肢もありました。今年やらなくて来年やるとしても、今年も来年も問題は変わりません。来年に延ばしても、遺族の方々にとっては都賀川という場所でやるおまつりです。数年別の場所でやったらいいのではないかということではないと考えました。ですが、自分たちは都賀川の公園でやることに意味があると思っていました。


――――武久君が委員長になったのは、事故の件と関係ある?


武久:最初、まちの人やOBに話を聞こうという話になって、今はプロのチンドン屋になっている灘チャレンジOBの内野さん(96年の実行委員長、元救援隊代表)に会いました。そしたら、灘チャレンジでは何をしたいん?と聞かれました。そのとき自分は、都賀川の事故の件や能登の地震の話をやりたいと言いました。そういうことが口から出てきた時に、自分の思っていることをみんなに伝えていきたい、という強い感情が出てきました。
 都賀川のことも、震災被災地のことも、どっちもやらなければならない。去年は耳の聞こえない人の情報保障のことについて訴えたりしたが、今年は自分が思っていることを形にしたいということで、気がついたら委員長になっていた。川のことをやらなければならないから委員長になったというよりも、どれも大事にしたいという想いから自分が委員長になった・・・ということかもしれません。


――――考えたり話をしたりしながら、言葉にならないものが言葉になってくることがあったのかもしれません。


久保:立ち上げ初期に、ご遺族の話を聞かなければならないということで、ご遺族の近い方の話を聞くことになりました。その頃は新3回生の実行委員幹部が決まっていなかったので、別働隊として先に都賀川についての小委員会を先に立ち上げました。その後、実行委員会が立ち上がって動いていく中で、小委員会が中心となって、都賀川についての取り組みを続けました。


――――灘チャレンジを終えて、一周忌にあたる7月28日を迎えました。


武久:灘チャレンジが終わったあとに、ご遺族の方に挨拶に行きました。一周忌とかそういうのは、外の人の見方だと思います。3年を目処に慰霊碑を建てるという話も出ていますが、それは外の人が決めた話だと感じました。時が経つほどに、そういうところについての配慮がなかったのではないか、という反省もありますが、まだしんどい思いをしている人はいっぱいいるということだけは考え続けていきたいと思っています。

久保:ご遺族の方の心情を量ることは難しいが、最初にご遺族に近い方から言われたのは、「遺族に何々をしてもいいですかと聞くのではなく、自分たちでできることをやれるかどうかを考えてくれたらいい」ということでした。そして、最終的には自分たちがやろうと思ったことをやり遂げて、それについて遺族の方に直接報告をすることができました。
 ですから、自分たちで取り組みを設定 してやり遂げたことについては、自分では評価できるところはあると思っています。来年以降のことについては、未定の状態です。もちろん、今回企画をやったからと言って、もう考えなくてもいいというような考え方は、後輩達にはしてもらいたくないと思うんですけれど。

▲灘チャレンジ当日に配布したパンフレットの記事



――――具体的な企画の内容を教えて下さい。


久保:追悼と検証という二つの軸で企画を構成しました。追悼は亡くなった方に哀悼の意を表すということです。追悼については、当日の黙祷と、追悼文を会場に掲示したり、パンフレットに掲載したりしました。検証については、誰が悪いという話ではなく、事故はなぜ起きたのか、どうしたら防げたのかということを考える企画にしました。4人の方にお話を聞いて、当日配布のパンフレットや展示したパネルで紹介しています。
 都賀川を守ろう会、<7月28日を「子どもの命を守る日」に>実行委員会、都賀川水難事故調査団の藤田先生、それから松本誠さん。松本さんや藤田先生が揃って「あそこは親水空間だったから事故が起きた」という指摘をしているのは印象深いです。
 端的に言えば、もともと危ないところを親水空間にしたというところが事故を招いたという考え方です。とにかく親水空間を作ればいい、という考え方に対する自戒でもあると思います。単に親水空間を作るだけにとどまるのではなく、その川との付き合い方・川の怖さを学べるようにやっていかなければならないと思います。
 検証についてはさらに、ミニゲームについて、雨や川について取り扱ったゲームをやったり、 ステージで婦人会の方に紙芝居を実施してもらいました。パネルやパンフレットでは活字ばかりになって大人向けになってしまうので、少しでも子どもにも伝わる様なことを考えました。あとは都賀川を守る会と灘区が作った都賀川安全ハンドブックを配ったりもしました。

武久:ミニゲームとステージは、小委員会だけでなく、各部署で都賀川について何かできないかを考えてもらって企画してもらったという形になっています。


――――困難だったことは?


武久:いろいろな想いを持っている人が学生の中にも、地域の中にもいました。その中でぶつかったりしたのが大きな困難だったように思います。学生の中でもいろいろな考えがあるし。

久保:それでも、亡くなった方やご遺族の方の立場に立って考えていこうという軸は、ぶれずにやれたと思います。

武久:まちの人は、誠意に対しては誠意で応えてくれたが、学生はそういうわけにもいかなかった。まちの人は自分の思いをそれぞれ持っておられるけれど、内部の学生は、自分の中で言葉にできないものがあって、後からいろいろと言ってくるような場合もあったし。

久保:そういう意味でも、自分たちの企画をやり通すことができたということは、評価できるのではないかと思う。


――――新入生はこの取り組みについてどう感じていたでしょうか?


武久:先輩が言っているから考えないといけないなあ、と思ってくれてる1年生がどのぐらいいたでしょうか。7月28日に都賀川の事故現場で行われた献花に来てくれる1年生もいたので、少しは伝わったことがあったのかもしれません。もちろん、そこに来た来ないで計れるものではありませんが。新入生の声に耳を傾ける機会も持てなかったので、これからはそういうことも聞いていったほうがいいかもしれません。

久保:4月の段階でポンと放り込まれた新入生は、2月ぐらいからの取り組みについては全然知らないままやってきています。ですから、どこまで知って考えてもらえたのかについて疑問は残りますけれど。

▲事故から1年が経った2009年7月28日にも、パネル展示を行った。



――――地域の人や来場者からの反応はどうでした?


久保:パネルを観た人からは、多角的な見方をしてまとめたことについて評価してもらえたのではないかと思う。

武久:「あの場所でよう祭りやったなぁ」と励ましてもらったことはありました。あとはインフルエンザの影響も大変だったので、それも含めて「よくやったなあ」と言われたりしました。

久保:今回は亡くなった方とご遺族の方のことを第一に考えながらやったので、そういう意味での外部からの評価を聞くということは難しいところはあるかもしれません。

――――どうもありがとうございました。




(取材・構成:相澤、2009年10月24日掲載)

2009年9月29日火曜日

2009年7月12日、「社会起業支援サミットin兵庫」を開催したSESCOメンバーへのインタビュー

 「社会的起業」というキーワードが注目されています。今年(2009年)3月に神戸大学で講演して頂いたノーベル賞受賞者のムハマド・ユヌス氏をはじめ、社会的な課題をビジネスの手法で解決する人たちが「社会起業家」と呼ばれるようになりました。

 彼・彼女らの取り組みは、行政の限界、企業の限界、ボランティアの限界を乗り越え、世界各地で多様な展開を見せています。2009年7月12日、神戸大学の学生を中心として結成されたSESCO(Social entrepreneurship Supporting COmmittee)が、社会起業支援サミットin兵庫を開催しました。

 イベント当日は、6名の社会起業家によるプレゼンテーションが行われ、その後、各起業家の人たちと参加者によるワークショップが実施されました。運営を担ったSESCOのみなさんは、どのようなきっかけから社会的起業に関心を持ち、どのように組織を立ち上げたのか、イベント後に彼らはどのような取り組みを考えているのか等についてお聞きしました。

■参加者(敬称略)
川村(国際文化学部2回生、SESCO代表)
田中(経済学部2回生、SESCO渉外担当)
相澤(聞き手・学生ボランティア支援室スタッフ。サミット当日も参加した)


――――代表の川村君がSESCOを立ち上げました。そもそも、なぜ社会的起業に関心を持つようになったのですか?

川村:テレビの番組で、ある若者が途上国で働いているドキュメンタリーを見た時に、働くことのビジョンとは何か、考え始めました。普通に就職して会社に勤めるのではなく、「こうしたい」という思いを持って働くのが大事だと思ったんです。大学に入る前から外国人との交流には関心があったのですが、神戸大学の国際文化学部に入ってからは、ますます海外に目を向けるようになりました。話せなくても、文化が違っても、コミュニケーションできます。入学直後は、アイセックというサークルの「海外インターンシップ」という文字に惹かれました。最初は、「何回も海外に行けるのか!」と思って参加してみたんです。参加しているうちに、活動の意義などを理解しはじめて、今もアイセックは続けています。それから、フェアトレード関係の活動をしているPEPUPというサークルに、あるイベントで出会いました。そのときは、自分も自己紹介して、その勢いでPEPUPにも参加して・・・という感じで今も続けています。世界に目を向けていきたかったので、国際協力とか、そういうことに関心がありました。現在、自分の中では、キャリア選択、国際協力、社会的起業の三つのキーワードが大きな柱になっています。


2009年7月12日に行われた社会起業支援サミット(於関西学院大学上ヶ原キャンパス)の様子


田中:私の場合、高校生の頃、最初は建築家になりたいと思っていました。でも高校生の時に自分の人生を決めてしまうのには抵抗があって、大学に入ってもっと世界を見てみたいと思うようになりました。大学に入って、最初は、体育会の部活に入部しました。1回生の頃は部活でいっぱいいっぱいでした。でも、もっと自分の視野を広げるような活動もしてみようと感じていた時に、友人からSESCOを紹介してもらいました。社会的起業のことを特集している雑誌を見たりして、社会のため人のために取り組んでいる人がたくさんいるということを知って、関心を持ちました。

川村:4回生の恒本さんというメンバーは、就活を通じて、このままでいいのかと思い留まって、たまたまwebを見て、SESCOに参加してきてくれた。そういう方もおられます。


――――社会起業支援サミットというイベントをやることになった経緯と、動き出してからの状況を教えて下さい。


川村:昨年、社会起業支援サミットを実施した先輩のブログを見たのがきっかけです。「自分の県でもサミット開催してみよう」という呼びかけを見て、やろう!と思って手を挙げてみたのが2009年の1月です。それで、自分の友達に声をかけてみました。学部の友達やPEPUPでの人間関係の中で、友達がさらに別のメンバーを連れてきてくれて・・・という形で仲間が集まりました。呼びかけてみたら、それぞれに何かしらやってみたい、という気持ちは持っているんです。だから呼びかければ参加してくれる。みんな「やってみたい」というふうに思っているんですね。まず最初は、学内の知り合いに呼びかけました。並行してブログを作って、3月末ぐらいに外部の人から連絡が入ってくるようになって、本気の度合いが上がってきました。「これだったらいけるかな」という感じになってきました。その後は、メールをやりとりしたり、人に会って話をしたりして、準備が軌道に乗っていきました。人数が集まってきたら、実際に動かしていかないといけないということで、5月頃から渉外が動き始めました。5月中旬には支援室にも声をかけさせてもらいました。振り返ってみると、1月から3月はコンセプトを考えていた期間でしたね。4月ぐらいから外部の人に会って。学生ボランティア支援室が関わることで、大学の公的な部門の関わりも出てきて、お金の部分でもちゃんとしてきました。インフルエンザがあったり、サミットの本部とのやりとりが大変だったり、というやりづらさもありました。

田中:兵庫のサミットはオリジナルな部分も多かったので、全国のサミットを統括する本部とのやりとりも大変でした。


――――サミットにお呼びした社会起業家の方々とは、どのようなやりとりをされましたか?


川村:サミットの全国本部からのリストの提供があったり、知人経由で紹介してもらったり、協力してもらった人から紹介してもらったりしました。最終的には15団体ほど候補があって、メンバーがそれぞれ調べてきて、内部で検討して決めました。

田中:なるべく分野がかぶらないように気をつけましたね。今まで、外部の大人の方と話をすることはほとんどなかったので、名刺の交換の仕方やメールの送り方など、ビジネスマナーを学ぶことからスタートした。最初は分からないことから。みんなで失礼のないように勉強して。社会起業ということを紹介させていただく上で、中途半端なことはできないと感じてましたし、やろうとしていることの志が高いと思っていたので、みんなのイメージを下げてはいけないというふうに考えました。

川村:起業家の方には、当日プレゼンをしていただくだけでなく、事前にインタビューをしたり、ワークショップの打ち合わせなどを重ねました。

田中:当日には冊子を作って配布したのですが、その冊子を作成するために、起業家の方にインタビューをしたりビデオを撮ったりしました。でも、相手から話を上手に聞き出す方法が分からなくて、そういうところから勉強しました。ワークショップについては、それぞれに起業家のみなさんと一緒に内容を考えたので、そのやりとりが大変でした。事前に渉外班の中でアイディアを用意した上で、先方の意向を聞きながら、こちらからも提案したりして。

川村:一生懸命やりすぎて、周りが見えてなかったところがあったかもしれません。プレゼンだけだと、参加者の側は聞くだけになってしまうので、自分たちとしては、起業家と参加者が一緒に作っていくような部分を用意したいと考えました。今後何か形になっていくような、双方向なコミットメントが必要だと思っていました。



社会起業支援サミット中に行われたワークショップの様子




――――イベントが終わってからの振り返りや自己評価は?


田中:振り返りを3回ぐらいやりました。

川村:各自が、今後の活動に今回の成果をつなげていけると思います。人間関係やノウハウなど、いろいろな成果がありました。サミットに参加していただいた起業家さんたちからも今後どうするのかとか、継続した方がいいという意見も頂いています。現在、大学生協と協力して、アフリカの子どもたちの給食支援に取り組む話も進んでいますし、大学の地域連携から頂いた助成金もあるので、試行錯誤しながら進めていきたいと考えています。


――――今後は?


川村:自分としては、仕事やキャリアのあり方に関心があります。就活して大きな企業に勤めるという流れに対して、もっと多様な働き方や生きるということは何かということについて、他のメンバーにも共通した問題関心があります。そういう問題に、どうやってアプローチするのかは、それぞれに模索しているところです。

田中:自分は特別これに興味があるとか、これをしたいというわけではなく、今はまだいろいろなものを見てみたいという気持ちの方が大きいですね。SESCOにいる人たちは志も意識も高いので、一緒にいろいろ勉強させてもらいたい、刺激をもらいたいと考えています。

川村:SESCOという組織は、今回のイベントのために作ったので、連絡先も団体の名称も変えたいな、と思っています。NPOのような形態もありえるだろうし。とりあえず足を止めずに、動き続けてみます。大学は4回生で終わりというわけではないので、自分たちで自分たちの時間をどう使っていくのか、ちゃんと有効に考えていきたいと思いますし。

田中:支援サミットに参加していただいた方と一緒に、ワークショップで出された提案について取り組めないかということで動きはじめているところもあります。サミットの時にできたつながりで、山に農場を作る話とか、生き甲斐や、自給自足について考える場になったり、そういう話も進んでいます。


――――これまで社会的な活動に取り組んでこられたわけですが、今後、大学や行政に求めるものは、何かありますか?


川村:学生の活動を後押しする体制ほしいですね。たとえば広報とか。学生が組織を作るとか、ボランティアをしようとか考えたとき、先にやれるかどうかという条件を考えたりして、あきらめてしまう人も多いと思います。ですから、大学などの大きなバックアップがあってもいいと思います。スキル面でも、ビジネスマナーやPCのスキル、プレゼンのスキルなどを教えてくれるサービスがあってもいいと思います。自分たちももちろん必死に頑張らなければならないとは思うけれど。

田中:学生ボランティア支援室の存在は大きかったです。PCを使えてミーティングができて、という場所は本当に大事です。

川村:資金は頑張ったら意外と集められます。動き始めて共感してくれる人がいれば、後押ししてくれるし。

田中:パワーポイント貸してくれて、プレゼンのやり方を教えてくれるような場は必要ですね。まずは自分たちのやっていることを説明する必要が出て来ますが、その能力が足りませんでした。自分は最初、川村君の話していることを一生懸命メモって、頑張って練習してプレゼンしていました。

川村:広報のコツなども、学生には分からないので、教えてもらえたら助かります。faxしたあとに電話するとか、どこにプレスリリースしたらいいのか、とかですね。


――――社会的起業という考えについて、思うところはありますか?


川村:普通の会社員の方でも、もっと労働を通じて社会に貢献しているという意識が持てるようになれたらいいと思います。自分は学生の立場ではあるけれど、日本社会は閉塞していると感じています。特にメディアを通じてそういうことを感じます。労働の価値観として、最近、ソーシャルビジネスとかそういうことを言われるようになりました。多くの人が、社会起業家に関心を持ち始めています。仕事を通じて、社会にアクションを起こしていくような、そういう社会でありたいと思います。

田中:多くの学生が、普通に就職していくと思います。でも、社会貢献に目を向けた仕事があるということを、もっと知ってもらいたい。そういう選択肢があるということを、もっと知ってもらいたいと思います。卒業したら、人生のうちの長い時間、仕事をしていくのだから、やりがいを持って仕事をしていきたいと思うし、学生のうちからそういうことに関心を持ってもらえたらと思う。



社会起業支援サミット中に行われたワークショップの様子



――――どうしたら多くの学生が社会的起業などに関心を持つことができると思いますか?


川村:足を動かす機会があればいいと思う。企業のインターンはあるけれど、それだけじゃなくて、たとえばNPOでのインターンに、もっとたくさんの学生が参加できるようになるとか。自分たちが考えていたものとはまったくちがうような労働スタイルとか、たとえば有機農業や自給自足を感じるとか、今までとは全然違うような経験が必要なんです。今までは狭い視野だったのが、こういう働き方があるんだ!という気づきがあればいいんじゃないかと思います。

田中:自分はたまたま友人に紹介してもらって、きっかけを得ることができました。大学に通っていても、どうしたらそういうきっかけを得られるのか、分からない人が多いと思います。でも、話をすれば興味を持ってくれる人はいっぱいるはずです。そういうきっかけをどうやって提供できるのか、まだ整理はついていないけれど、絶対に必要だと思います。


――――長い時間、ありがとうございました。SESCOのみなさんの今後の活躍にも、期待しています。


(聞き手・構成:相澤亮太郎)





インタビューに答えてくれた田中さん(左)と川村君(右)

2009年8月7日金曜日

座談会「灘チャレンジ2009 風刺劇 "ちがったっていいじゃん――日本に暮らしている 外国にルーツを持つ子ども達――"を終えて」(1)

座談会「灘チャレンジ2009 風刺劇 "ちがったっていいじゃん――日本に暮らしている 外国にルーツを持つ子ども達――"を終えて」(1)

 2009年6月7日日曜日、神戸市灘区の都賀川公園では、神大生と地域住民が企画・運営する地域イベント「灘チャレンジ2009」が盛大に開催された。昼過ぎ、公園の特設ステージでは、「ちがったっていいじゃん――日本に暮らしている 外国にルーツを持つ子ども達――」と題した寸劇が上演され、外国にルーツを持つ子供たちの生き様や葛藤、日常を舞台の上で表現しました。

 劇に取り組んできたのは、灘チャレンジ実行委員会内の演劇集団「神大人民カゲキ びわぽん団」。1995年6月に阪神・淡路大震災の復興祭として始まった灘チャレンジでは、毎年恒例の名物企画として、社会的な課題を取り上げた寸劇に取り組んでいます。劇メンバーは、取材や脚本作り、演技の練習だけでなく、取り上げたテーマに関する活動現場にも足を運びます。そんな「舞台の上で完結しない劇」を作った学生のみなさんに集まってもらい、"舞台裏"を話してもらいました。


■座談会参加者(敬称略)
関:農学部3回生。劇の脚本を作成。
臺:農学部2回生。劇の演出を手がける。
納庄:理学部1回生。劇では、在日コリアンの大学生を務める。
山中:発達科学部1回生。劇では、ベトナム人を追い出す店長役を演じた他、当日配布した資料集に掲載した漫画を作成。
松田:法学部1回生。音響を担当。
相澤:聞き手。学生ボランティア支援室スタッフ。灘チャレンジ97、98では寸劇の役者として舞台に立った経験もある。

▲2009年6月7日の灘チャレンジ2009のステージでの、風刺劇の上演。

――――灘チャレンジでは毎年違う、社会的なテーマを取り上げた寸劇に取り組んでいます。1年生として入ってきた人たちは、そもそもどんなことをするのかも分からないまま、劇の活動に参加しますよね。最初のきっかけや、劇に参加しはじめた頃の印象はどうでしたか?

納庄:救援隊(学生震災救援隊)の新歓に行ったら、劇に誘われました。高校時代、ボランティア活動に参加した経験もあって、そういう活動にはずっと関心があったので。

山中:子どもの頃に児童劇団の活動に参加してたりしたので、灘チャレンジの劇はそれと似ている感じでした。児童劇団には歌やダンスがありましたけどね。大学に入ってからは絵を描いたりして過ごそうかと思っていたんですけどね。最初はモダン・ドンチキ(チンドン屋サークル)の新歓に行ったら、関さんに誘われて。

松田:灘チャレンジでPA(音響)を担当することになって、「それなら、松田君は劇のPA担当ね」っていうことになりました。劇の練習場所に行って、初めて今回の劇のテーマを知ったというような感じでしたけどね(笑)。以前から、漠然と「人のために」という気持ちは持っていたけれど、高校時代は積極的に取り組むこともあまりなくて、モヤモヤした感じだったんです。なので大学に入って、最初は総ボラ(総合ボランティアセンター)に行って、そこから救援隊→灘チャレンジ→劇ということで、今に至ってます。

――――声をかけて劇に連れてきた1回生に、どんなことをしてもらいました?

関:いきなり取材に連れて行きましたよ。会ってなんぼだと思うので。他に何か方法あります?(笑) 上回生と1回生の組み合わせで、知り合いのつてなどを使って、在日外国人の人たちにアポイントを取って、話を聞きに行きました。最初はキムソンギルさん(NPO法人 神戸定住外国人支援センター理事長)をお呼びした新歓講演会に、「1回生はぜひ参加して」と呼び掛けました。山中さんは、わりと最初の頃から参加してくれていましたが、納庄さんや松田君は、もう少しあとから参加したんだよね。

山中:私は、いきなり「行こう!」って言われて、アンさんのところに行きました。彼女はベトナム難民の呼び寄せ家族なんですが、最初は「難民で日本に来て苦労してる」っていうイメージだったんですが、アンさんからは「他の人と同じように、自分は頑張ってるだけだよ」と言われて、衝撃を受けました。

納庄:深江の学習支援の現場に取材に行って、自分たちの世界と違う世界があることにびっくりしました。普通のアパートの部屋の壁をぶち抜いて教室にしているのですが、日本語とポルトガル語が共存しているような世界で。

松田:自分は特に取材に行ったりしてないけど、劇に参加して変わったことがあったとすれば、意識しなかったような外国人のことを意識するようになったことぐらいかな。

――――劇を通じて外国人の人たちへのイメージや接し方が、何か変わったりしました?

関:取材を重ねていた頃、「これまでに自分が会ったことのある外国人の話をしてみよう」という集まりをやりました。自分は大学に入る前に、学校で朝鮮人の強制連行のこととか勉強したことがあって、だから在日コリアンの人に申し訳ないという気持ちを持っていました。でもある時、在日コリアンの知り合いから、「逆に変な気遣いをすることの方が偏見だ」と言ってもらえたんです。自分の中に偏見を持っていることに気がついたのは大きな発見でした。でも相手を傷つけたくないという気持ちも、当然持っています。劇をやったから接し方を変えようという考え方自体が、外国人の人たちに失礼だと思っています。

納庄:これまで、外国の人は大変だから助けてあげなきゃ、と思っていたけど、それは上から目線だったかもしれないと思うようになったので、これからは自然体でいけたらいいと思います。

山中:自分は日本人と接する時でも、初めての人には緊張します。大学に入って、留学生の友だちとは普通に接しているけれど。


▲灘チャレンジ終了後、協力していただいた地元の方々に集まっていただいた打ち上げ(国文食堂)にて、風刺劇を再上演しました。


――――劇の中では、登場人物の「名前」をめぐる葛藤が描かれていました。

関:劇中のベトナム人の男の子の名前を途中で変更したことがありました。

山中:ベトナム人の人が劇を見たら「女の子の名前みたい」と違和感を感じるかもしれないという指摘があったからですよね。

関:本番ではカットしたシーンがありました。「日本人っぽい名前」を通名として使っているベトナム人の男の子が、本名の民族名を使っている別の男の子を「ベトナム人!」と冷やかすシーンがあったんです。実際にあった話を元にして、同じ立場の人間が、マジョリティ(=日本人)の側に回ろうとする悲惨さを表そうと思いました。自分がベトナム人だということに否定的な感情があるんです。そして、そうさせるのは周りの日本人の空気だという問題提起をしたかったんです。ベトナム人の男の子を演じた1回生は、そのシーンを思い浮かべながら、演技をしたと言っていました。

納庄:逆に、日本人の子どもの名前とか、欧米っぽい読み方する子が増えてますよね。

関:名前を含めたアイデンティティ(自分は何者か)の問題については、日本人からとやかく言えることでもないと思っています。昨年聞いたベトナム難民の牧師さんの講演が印象に残っています。ベトナム人でも引き立ててくれる人がいれば、会社に入って出世することができる。でも、名前を民族名から通名に変えて隠してしまえば、「ベトナム人」であると分からなくなってしまう。すると、「ベトナム人」でも「本名」でいても成功できるということを、同じルーツを持つ子どもたちに伝えることができない、という話でした。劇の中では、ラジオを通じて登場するベトナム人難民2世ラッパーのナムさんに、その役を託しました。その他にも、「違うことこそすばらしい」という作文集の中に、高校野球のピッチャーとして活躍する在日ベトナム人の高校生に励まされたという話がありましたが、外国にルーツを持つ子どもたちにとって、同じルーツを持つ日本社会で成功した大人(先例)の存在は大きいと思います。



・・・・・・・(2)に続く。

座談会「灘チャレンジ2009 風刺劇 "ちがったっていいじゃん――日本に暮らしている 外国にルーツを持つ子ども達――"を終えて」(2)

座談会「灘チャレンジ2009 風刺劇 "ちがったっていいじゃん――日本に暮らしている 外国にルーツを持つ子ども達――"を終えて」(2)

――――1回生が入ってくる直前に、寸劇の企画が動き始めました。最初はどんな状況からスタートしましたか?

臺:3月ぐらいになっても、担当が決まらなくて大変でした。

関:今年の灘チャレンジは、すべての企画において「本当に自分がやりたいのか?」という所から出発するような形になりました。やりたいことのない人は、逆に居づらいような。

臺:周りからは「みんな劇は臺君がやると思ってるよ」って言われたりして。。。

関:自分は最初、灘チャレンジには関わる気はなかったんですが、去年の寸劇の脚本を書いた江口さん(発達・4回)の策略(?)もあって途中で乗り気になりました。臺君は2回生だけど、2年目で劇の脚本を書くのはとても大変なので、結局、私が途中で脚本の担当を奪いました。(笑)

臺:最初は、ジェンダーのこととかをテーマにしようかという話が出てました。

関:救援隊の内部でも、ジェンダーに関する取り組みはまだ始まったばかりですよね。

臺:劇の脚本を作る上では、実際に現場で動いている人とのつながりがあるかないか、ということがとても大事になる。灘チャレンジは準備期間が短いから、今年ジェンダーのことをやっていたら大変だったと思う。

関:自分は救援隊の学習企画局の副局長をやってきて、劇はその1年間の総まとめでもあった。学習企画局というのは、自分たちはボランティアなどを通じて現場でいろいろ活動しているけれど、人権のこととか全然知らないということで、2002年に林さんという先輩が作った部局。これまで広く浅く、いろいろなことを勉強してきた。毎年秋にやっている連続講演会や、2月のボランティア講座など、そういう活動の中で、私は、在日外国人分野の担当だったので、その分野で活動をしている人たちといろいろなつながりができていった。こういう人たちに相談やチェックをしてもらわなかったら、劇はできていなかったはず。

臺:関さんはこれまで、在日外国人について、めちゃくちゃたくさん勉強してましたよね。

関:知識がないままやることは、とても怖いこと。中途半端にやると偏見につながりかねない。そういうことについては、大きなプレッシャーがあった。だから、取材をさせてもらった相手の人から、劇を褒めてもらえるのが、一番嬉しい。

▲本番の2日前、国文キャンパスで実行委員メンバーを対象としたお披露目会を行った。

――――1回生のみなさんから、自分たちが取り組んだ劇について、いろいろと疑問に思ったことはありますか?

納庄:なぜ劇という手段だったんですか?テーマがあって、劇をやろいうということなのですか?

関:うーん。灘チャレンジでは、最初は、震災後のまちづくりにおける行政批判みたいな劇からはじまったはず。その後、復興をテーマにした劇から、「発信と交流」というコンセプトに変わってきた。今年は、まず劇をやることは決まっていて、テーマは後から決めた、ということになると思う。

臺:(復興住宅でお茶会活動を続ける)N.A.C.でも、なぜお茶会なのか?という問いがあるけれど、それと同じかな。

関:(チンドン屋サークルの)ドンチキでも、なぜチンドンなのか?という問いは、やっぱりある。見てもらうためには面白くなければいけないだろうし。

山中:一番見てもらいたい人は、何も知らない人ですよね?

関:そうだね。劇は、「外国にルーツを持つ人」に関心を持つための入り口だと思っています。もちろん、見てくれた人には、その後何かアクションを起こしてもらいたいです。それは、日本語ボランティアに参加することかもしれませんし。また「外国人=犯罪者」みたいに扱われたり、周りの見る目が冷たいと、自尊感情は育たないので、外国にルーツを持つ○○さんとして「ただ居る」ということを認められる、近隣の日本人住民になって欲しいという思いもあります。

松田:日本人になりたいというベトナム人に対して、ベトナム人になれと強制することはできないですよね。

関:うん。それは大事なことだと思う。

臺:自分は演出の担当だったので、役者のみんなにはリアリティを持ってやってほしいと思っていた。少しでも、演じている人物の生き様や人生についてのイメージを膨らませてほしい。自分も去年役者をしたから分かるけれど、最初は台本通りにするだけで精一杯かもしれない。でも、たとえば自分が識字教室に通ったりする中で、自分の演じている人のしんどさなどを少しずつ理解して、役柄に近づくきっかけになった。劇を見た人には、何かのきっかけになってほしいという思いもあるけれど、それ以上に、まずは演じる側の人間にとってのきっかけになったらいいと思う。

納庄:臺さんは、どんな役の演出を付けても、とてもハマっていたと思う。

山中:臺さんの演じたミン(ベトナム人の男の子)も、迫力があったし。

臺:ミンや店長の役は、感情が表に出せるけれど、説明的な台詞が多い役は大変だった。

▲風刺劇のフィナーレ。


――――劇は最後に、お祭りの屋台でみんなでアジア料理を売るシーンになって、「これからもこの場所で生きていくんだ!」と、未来に向かう台詞で閉幕します。劇のエンディングについては、どういう風に決めましたか?

関:はじめは、真っ暗なエンディングを考えていました。日本人側の心の溝の深さや冷たさに、愕然として終わるような・・・。

納庄:でもそれだと、見ている人に不快感を与えることになりますよね。

関:以前の灘チャレンジの寸劇では、自分には何も出来ないと言って現場から去るようなエンディング案があったそうです。脚本を書く人間の、現場に対する考え方やスタンスが結末に出ると言われたことがあります。自分の場合は、今回のような、「まずは食べ物などの身近なことから、もっと知っていくところからはじめよう」というメッセージを込めました。

――――劇の脚本を書いたことは、関さんの自分の人生に何か影響がありそうですか?

関:自分のこれからの人生で、外国にルーツを持つ人に目が向くことが増えそうです。自分の実家は長野県の諏訪という精密工業の町で、工場では日系人がたくさん働いています。ポルトガル語で何を言っているのか分からなかった子がいたことなんかを思い出します。農学部ですし、将来は実家に帰って農業をしたいけれど、お互いに言葉や文化を教え合ったりするような、KFC(劇の取材でお世話になった「定住外国人支援センター」)のような場所を作りたいです。

――――1回生のみなさんも、これからいろいろな活動に参加しながら、頑張ってください。今日は長時間どうもありがとうございました。

(2009年7月18日放課後、学生ボランティア支援室にて。聞き手・執筆:相澤亮太郎)



▲座談会に参加してくれたみなさん。左から、臺君、松田君、納庄さん、山中さん、関さん。





・・・・・・・・・・・・・(3)に続く

座談会「灘チャレンジ2009 風刺劇 "ちがったっていいじゃん――日本に暮らしている 外国にルーツを持つ子ども達――"を終えて」(3)

座談会「灘チャレンジ2009 風刺劇 "ちがったっていいじゃん――日本に暮らしている 外国にルーツを持つ子ども達――"を終えて」(3)

■台本のあらまし

 日本生まれのベトナム人中学生の男の子、ミン(日本名:陽一)は、自分の「ベトナム」というルーツに地震が持てず、民族名の「ミン」に違和感を持っている。日本人中学生とつるんで、日本人と同じになろうとする彼はある日、仲間とゲームセンターのガラスを割ってしまう。

 1人逃げ遅れたミンは、店主に捕まって名前を尋ねられる。店主はミンという名前から少年がベトナム人だと推測すると、「ベトナム人=外国人=犯罪者」のイメージから、ベトナム人全員を犯罪者扱いするような態度に出る。ミンは、こうした経験から、本名を隠して、日本名の「陽一」として生きていくことを決意する。

 一方、主人公の萌(日本人)は大学の入学式のあと、生まれて初めて「外国人」の金紗栄(キム・サヨン)と出会う。ルーツに関する会話の中で、外国人である紗栄に対して自分なりの配慮をしたつもりが、逆に気まずい空気になってしまう。このことを気にした萌は、在日コリアンの歴史を調べ、数日後の帰り道、紗栄ともう一度話しをしてわかり合う。そのとき、ゲームセンターから大きな声が聞こえてきた。萌と紗栄は、ゲーム店の店主が、2年前に来日したベトナム人中学生の男の子、トゥアンを店から追い出す場面に遭遇する。

 トゥアンは、ミン(陽一)と共に外国にルーツを持つ子どもたちが学校の宿題や日本語の勉強をするための「学習支援」に通っており、紗栄はそこでボランティアスタッフをしていたため、2人は知り合いだったのだ。萌は、紗栄の誘いで一緒に学習支援に行くことにする。そこで萌は、日系ブラジル人の小学生、アケミにも出会う。

 ある日萌は、大学の先輩と一緒に、学習支援の子どもたちが参加するお祭りに遊びに来た。ベトナム料理の屋台を出していた子どもたちは、萌の先輩に自己紹介しながら、将来の夢を語る。外国にルーツを持つ子どもたちの「不安だけど、いろんな人の支えがあって、これからもこの場所で生きていくんだ!」という台詞で劇は幕を閉じる。

 萌は、大学や学習支援を通じて、日本に来た時期・経緯・国が異なる子どもたちと出会い、彼・彼女らの家庭の経済状況や、周りの大人たちの教育に対する理解が異なることに気づいていく。外国にルーツを持つ子どもたちが、胸を張って民族名を名乗れる、彼らが夢や希望を持てる社会とは一体何?みなさんも萌と一緒に考えてみませんか?
(灘チャレンジ2009パンフレット 21pより抜粋・加筆)


▲当日会場で配布された風刺劇資料集。マンガは役者の山中さんが担当した。






・・・・・・・・・・・・・・完

2009年6月10日水曜日

学内団体を訪問します

このコーナーでは、学生ボランティア支援室のスタッフが学生の団体や活動現場を訪問したり、各グループのメンバーに活動についての話をしてもらったりする予定です。

学生のみなさんの活動の様子や、学生のみなさんが活動を通じてどんなことを感じたり考えたりしているのか、ということを、楽しくお伝えしたいと思います。

2009年7月後半あたりから更新がはじまると思いますので、お楽しみに!